神田恵介 プロフィール (2012/2/4 加筆)


*1998年

 

大学三年生、21歳。

僕のなかでファッションが初めて鳴り響いて鳴りやまなくなった。

寝ても醒めても服のことで頭がいっぱいだった。

 

コム・デ・ギャルソン、マルタン・マルジェラ、ヴィヴィアン・ウエストウッド、アンダーカバー、シンイチロウ・アラカワ、フセイン・チャラヤン、クリストファー・ネメス、マーク・ル・ビアン…。

すばらしいデザイナーたちの世界に触れ、衝撃を受ける。

 

毎日のように原宿に通った。

週末の遊歩道ではゲリラで路上フリマが催され、服を通して色々な人と出逢うことができた。

新潟から上京して来たばかりの唇に安全ピンを刺した少年と出逢い、友達になった。彼は後に我が社の取締役となる。

原宿のディシプリンという古着屋さんでは、オーナーの平川武治さんが僕ら学生たちに色んなお話を聴かせてくれた。

平川さんが小さなお声で話す言葉ひとつひとつを聞き漏らすまいとメモをとった。

 

当時好きだった女の子は服がとても好きな人だった。

僕はいつしか「服をつくってあの娘にプレゼントしたい」と思うようになっていた。

誰かに認めてもらいたくて始めたんじゃない。ただ、あの娘にみとれてたら始まってたんだ。

 

知人から譲り受けた文化服装学院の教科書を片手に、独学で僕の服づくりが始まった。

生まれてはじめて手にしたミシンはJUKIのSPURで、僕らは意気投合してこの後十年以上も連れ添うことになる。

パターンなんてろくに引けないくせに、服飾学生がみんな持ってた「アジャスターケース(通称・バズーカ)」を購入。

意気揚々とバズーカを装備して、僕の冒険の旅は始まった。

ケースの中に入れるパターンはまだなかったけど、チラシの裏に描いた、つくってみたい服の構想メモをたくさん詰め込んで。

 

やがて完成した一着のワンピース。

けれど、あの娘を目の前にしたら、頭が真っ白になって結局渡すことができなかった。

 

人生に映画やドラマのような展開なんてそうそう待ち受けていない。

張られた伏線は、余裕で回収されないんだと思い知る。

 

心にぽっかり空いた穴をふさごうと、その後も服をつくり続けた。

机の引き出しの奥に溜まった「渡せなかったラブレター」みたいな、僕の服。

着てもらえるあてのない服が、ただ増えていった。

 

やりたいことも夢もなく、彼女もいない。バイトもせず、大学の授業にもろくに出なかった。

毎日をただやり過ごす。

そこから僕を救いだしてくれたのは服と1998年だった。

 

 

 

 

*1999年

 

大学四年生の夏、僕はショーをやることに決めた。

ショー会場は運行中の電車の中。

もちろん許可は取っていない。

1999年7月4日日曜日夜の9時過ぎ、吉祥寺駅のホームは、ショーを観に来てくれた人たちでごった返した。

190円の乗車券がそのままショーのチケットになった。

21時47分、定刻通り、お客さんと僕らを乗せて電車が走り出す。

ショーの音楽はラジカセから流した。

電車内の通路をランウェイに見立て、モデルの女の子たちがよろめきながら車内を歩く。

スポットライトはもちろん無いんだけど、車内の蛍光灯にぼんやり照らされた女の子たちは、不思議とまぶしかった。

 

ショーが終わった直後、僕は鉄道警察につかまって取り調べを受けた。

観に来てくれていた朝日新聞の記者の方が、取り調べ室で絞られている僕を助けて下さった。

僕はなんとか犯罪者にならずに済んだ。

 

今でも、ときどきあの日のことを思い出す。

発表した服は、正直しょぼかったと思う。あの日やらかしたことの大きさに、肝心の服がついていけてなかった。あの日、あの「事件」に置いてきぼりにされた僕の服。

あの日の借りはいつかきっと服で返そう、と拳を握りしめた。

 

 

 

*2000年

 

僕は、早稲田大学を卒業し、文化服装学院に入学した。

大学時代にまったく勉強しなかった反動なのか、文化の学生時代は熱くなった。

学生という限られた時間のなかで、一着でも多く服をつくろうと必死だった。

授業が終わりみんなが帰った後、12階学生ホールで独り、パターンを引いた。

校内の消灯時間を過ぎても止めなかった為、警備員さんからは早く帰れと毎回のように注意されながら、

意地になって自分勝手な居残り勉強を続けたのだから、困ったもんだ。

あの時やってたことを正当化するつもりはない。ギリギリ・アウトだったと思う。

唯、ひねくれた情熱だけが育っていった。

 

当時大好きだった雑誌がある。

僕は毎月欠かさず買って読んでいて、気に入ったページを切り抜き、部屋の壁にぺたぺた貼ったりしていた。

文化の一年生の秋、幸運にもその雑誌の編集長だった関直子さんに僕の服を見てもえる機会があり、それ以来僕が何かやらかす時はいつも見に来て下さった。

関さんはたまに電話をくれて、発表した服に対してアドバイスをしてくれたり、僕の知らない色々なお話を聞かせてくれたりした。

未熟さ故、関さんのおっしゃっていることの意味を半分も理解できず、電話を切った後は決まってひとり勉強会を催した。 

 

 

 

*2002年

 

僕は文化の三年生になったけど、あいかわらず彼女はいない。

 

文化服装学院と建物的には「つながっている」文化女子大学。

でも僕はつながれなかった、文化女子とは。

 

12階学生ホール。文化女子と僕ら学院生が交わる奇跡の交差点。

12という数字をみるだけでも、キュンとなってた、しまいには。

今日は、あの娘に逢えるかな。

エレベーターに乗り込み、用も無いのに12のボタンをおしたっけ。

 

 

 

*2003年

 

文化を卒業した僕は、月の家賃二万で早稲田大学構内の空き教室を間借りさせてもらい、

そこにミシンを持ち込み、服をつくっていた。

 

池袋の廃校になった小学校で、軍モノの服を解体してランジェリーとごちゃまぜにした服を発表したのもこの頃。

関さんのご厚意で、なんと僕の服を誌面で取り上げて頂けることになった。

生きてて良かった。大げさではなく、本当にそんな気持ちだった。

その雑誌の発売日、僕は本屋さんに行き、あまりの嬉しさに思わず10冊ほど購入してしまった。

小さな記事だったけれど、僕にとってはとても大きくて価値があるものだった。

 

何かが始まる予感がした。

 

ほどなくして、あるスタイリストの方から僕の携帯に電話がかかって来た。(その小さな記事をみつけてくれて!)

一度服をみてみたい、とのことだった。

緊張のあまり僕は声が震えっぱなしだったけれど、初めて聞くその人の声はとても優しくかわいらしかった。

なんだか夢みたいな話だと思った。

だって、僕の部屋の壁に貼られた切り抜きには、その人がスタイリングしたページがいくつもあったし、はじめて知ったスタイリストもその人だったから。

 

人と人とのつながり。

つないでくれたのは、服。

 

2003年7月。東京は、梅雨明け間近。

僕はあの人にみつけてもらえたんだ。

 

 

 

*2005年

 

僕らは、東京タワーでコレクションを発表することになった。

森永と出逢ってから8年目の秋。

なにかやらかしたい。そんなモヤモヤした気持ちが、僕ら二人を突き動かしたんだと思う。

 

コレクションをやるにあたり、僕にはどうしてもオファーしたいモデルさんがいた。

それは、ファッション誌に出てるようなモデルさんでもなければ、おしゃれタレントさんでもない。

他でもない、僕ら男子にとっての永遠のアイドル、「AV女優さん」だ。

お話を聞いてもらいたい相手として真っ先に浮かんだのは、高橋がなりさんが創業した「ソフト・オン・デマンド」というアダルトビデオの会社だった。

なぜかというと、むかし「マネーの虎」というテレビ番組がやってて、根拠の無い自信だけは溢れてる若者たちに惜しみなく投資する高橋さんのお姿を見て、いたく感動したからだ。

自分もひょっとしてなんとかなるんじゃないか、と勇気をもらったからだ。

家にあったDVDのパッケージに本社の代表番号が書いてあったので、ダメ元で電話をかけて交渉してみることにした。

電話口の反応は案の定芳しくなかったが、こっちの熱意を汲んでくれ担当の方が逢ってくれる運びになった。

意味不明な自作の企画書を持参し、ドキドキしながら新中野にあるソフト・オン・デマンド本社に向かった。

ロビーに通されると、そこには「TENGA」がうず高くつまれていた。

そのTENGAタワーの凛とした佇まいは、僕らがこれから挑もうという大舞台である東京タワーのイメージとも重なった。

お話を聞いて頂いたのは、広報担当の前川さんと杉浦さん。

お二人は、緊張して自分でも何をしゃべっているのかわからない僕の話に、真剣に耳を傾けてくださった。

 

後日、前川さんからお返事があった。

夏目ナナさん、北川絵美さん、かすみ果穂さん、衣川由衣さんという錚々たるメンバーがモデルとして出演して下さる、

という信じられない内容に、嬉しいを通り越して僕はしばし茫然と立ち尽くした。(つづく)

 

 

 

*このプロフィールは、加筆をくりかえしながら、少しずつ形づくられていきます。