神田恵介 プロフィール (2010/6/28 加筆)
*1998年
大学三年、21歳。
僕のなかでファッションが初めて鳴り響き鳴りやまなくなった年。
寝ても醒めても服のことで頭がいっぱいだった。
服をつくりたくて、生まれてはじめてミシンを買った。
選んだのは、JUKIのSPUR。自動糸切りが付いてないやつ。
ペダルの踏み込みに対するレスポンス、モーター音の色気、頑丈さ。すべてが秀逸だった。
彫刻刀で、ミシンに「僕の彼女」と彫った。
彼女はいまでも、僕らのアトリエで活躍してくれているから、今年で交際12年になるのか。
毎日のように原宿に行っては、服を通じて色んな人たちと出逢った。
原宿のディシプリンという古着屋さんで、オーナーの平川武治さんが僕ら学生たちに色んなお話を聴かせてくれた。
初めて平川さんのお話しを聞いた夜、なんだかショックを受け、なかなか寝付けなかったことをおぼえてる。
それからというもの、彼の書いた評論をかたっぱしから読み漁り、ノートを取った。
自分のつくった服で初のファッションショーを経験したのも98年だった。
ショーをやるようになって、生まれて初めてファンレター?をもらった。(手紙をくれたフゥちゃんは、今をときめくヘアメイクアーティストになった!)
その手紙は今でも机の奥に大事にしまってある。
当時の僕らのアイドルは清川あさみさん。
フゥちゃんに紹介してもらって、嫌がるあさみさんに頼みこんで、なんとかショーのモデルをしてもらえることになった。
その晩は、嬉しくて一人で泣いた。
早稲田の繊維研究会の片岡君たちに、ファッションショーをやりたいから服をつくって欲しい、と誘ってもらい、僕も参加することになった。
その秋、彼らはキャンパスに舞台まで作り上げ(あれ凄かったなあ)、最高の舞台を提供してくれた。
僕の服はともかく、あの舞台とあのメンバーで共に作品を発表できたことを誇りに思う。
平川さんもショーを観に来て下さり、ショーが終わってから数日後、キットカットカフェで、僕らにショーの感想を聴かせてくれた。
あの時頂いた言葉を、僕は一生忘れない。忘れないでいたい、と思う。
あのむさ苦しい大学のキャンパスの中で、ファッションショーをやっちゃうなんて、なんだか今考えるとおかしな話なんだけど。
でもあの時はそんな風には全然思わなかった。真剣にやればやるほど、後で振り返ったとき、なんだか滑稽で、クスっと笑えたりするのは、何故なんだろう。
やりたいことなんて何もなかった僕を救ってくれたのは、服だった。
すべてのはじまりは、あの年。
1998年を僕は忘れないんだ。
*1999年夏
僕はショーをやることに決めた。
大学の友人たちが皆、力を貸してくれた。
ショー会場は電車の中。
もちろん許可は取っていない。
1999年7月4日日曜日21時過ぎ、吉祥寺駅のホームは、ショーを観に来てくれたたくさんの人でごった返した。
190円の乗車券がそのままショーのチケットになった。
21時47分、定刻通り。お客さんと僕らを乗せて電車が走り出す。
モデルの女の子たちがよろめきながら車内を歩く。
服一体ごとにタイトルをつけた。
発表した服はしょぼかった。
あの日やらかしたことの大きさに、服はついていけてなかったんだと思う。
ショーが終わった直後、僕は鉄道警察につかまって取り調べを受けた。
終わったなと思った。
ショーを観に来てくれた朝日新聞の記者の方が、取り調べ室で絞られている僕を助けてくださった。
僕はなんとか犯罪者にならずに済んだ。
今でも、ときどきあの日のことを思い出す。
あの日、あの「事件」に置いてきぼりにされた僕の服を想う。
あの日の借りは、いつかきっと服で返そう、と。
*2000年春
僕は、早稲田大学を卒業し、文化服装学院に入学した。
大学時代にまったく勉強しなかった反動なのか、文化の学生時代は熱くなった。
学生という限られた時間のなかで、一着でも多く服をつくりたかった。
授業が終わりみんなが帰った後、12階学生ホールで独り、パターンを引いた。
校内の消灯時間を過ぎても止めなかった為、警備員さんからは、早く帰れと毎回注意され、
時に罵倒など浴びせられながらも、意地になって勝手な居残り勉強を続けた。
結果、不毛な自己満足、ひねくれた情熱を今に育てることになる。
*2002年夏
三年生。
文化服装学院と建物的には「つながっている」文化女子大学。
でも僕はつながれなかった、文化女子とは。
そりゃそうだ。
12階学生ホール。文化女子と僕ら学院生が交わる奇跡の交差点。
12という数字をみるだけでも、キュンとなってた、しまいには。
今日は、あの娘に逢えるかな。
エレベーターに乗り込み、用も無いのに12のボタンをおしたっけ。
今、文化に通ってる男子のみなさまへ、
あなたたちも、きっとそうだろう?
文化女子の女子がとてもかわいくて、しんじゃいそうだった2002年、25歳の夏。
*2003年夏
文化を卒業した僕は、月の家賃二万で早稲田大学構内の空き教室を間借りさせてもらい、
そこにミシンを持ち込み、服をつくっていた。
とにかく必死で、失うものなんてなんにもなかったあの頃。
学生時代から大好きだった雑誌がある。
僕は毎月欠かさず買って読んでいた。
気に入ったページは切り取り、壁にぺたぺた貼った。
当時、その雑誌の編集長だった関直子さんには、たいへんお世話になった。
文化の一年生の秋、幸運にも関さんに僕の服を見て頂ける機会があった。
それ以来、関さんは僕が「なにかやらかす」ときはいつも見に来てくださった。
僕みたいな、しがない学生の服を、正面から見てくれて、叱咤激励をしてくださった関さん。
たまに電話を頂いては、厳しくてあたたかい言葉をかけてくれました。
いくら感謝しても、しきれません。
そんな関さんのご厚意で、なんと、僕の服をその誌面で取り上げて頂けることになった。
生きてて良かった。
大げさではなく、本当にそんな気持ちだった。
2003年8月号の「装苑」発売日、
僕は本屋さんに行き、あまりの嬉しさに思わず10冊ほど購入。
ほんと小さな記事だったけれど、僕にとってはとても大きくて価値があるものだった。
何かが始まる予感がした。
ほどなくして、あるスタイリストの方から僕の携帯に電話がかかって来た。
その小さな記事をみつけてくれて!
こんなことってあるんだな、自分のことなのに人ごとのようなへんな気持ち。
緊張して僕は声が震えっぱなしだったけれど、その人の声はとても優しくかわいらしかった。
講談社のエクスタスという雑誌でのスタイリングに僕の服を使いたい、とのことだった。
夢かと思った。
そういえば、僕がその人を初めて知ったのも、装苑だった。
見たことがないような強くて新しいイメージと、
小さい頃の記憶のなかの風景のような、懐かしいにおいのするイメージと。
そのふたつが作品の中に寄り添っているような。
デザイナーにしか興味がなかった当時の僕が、はじめて興味をもったスタイリスト。
表現者にとって一番大切なその「何か」をたしかに持っている人。
そして、いつも僕をドキドキさせてくれる人。
そんなあの人と僕をつないでくれた服。
服に感謝したい。
人と人とのつながり。
つないでくれたのは、服。
2003年7月。
東京、梅雨明け間近。。
僕はあの人に見つけてもらえた。
*2005年秋
僕らは、東京タワーでコレクションを発表することになった。
森永と出逢ってから8年目の秋。
なにかやらかしたい。
強いそのモヤモヤが僕ら二人を突き動かした。
コレクションをやるにあたり、僕にはどうしてもオファーしたいモデルさんがいた。
それは、ファッション誌に出てるようなモデルさんでもなければ、おしゃれタレントさんでもない。
他でもない、僕ら男子にとっての永遠のアイドル、「AV女優さん」だ。
僕は本気だった。
AVの世界に、「ソフトオンデマンド」という、というおもしろい会社があることをみなさんは知っているだろうか?
当時大好きだった夏目ナナさんが専属契約を結んでいた会社で、創業者の高橋がなりさんはとても魅力的な人だ。
僕は、このソフトオンデマンドさんにありったけの気持ちをぶつけてみようと思った。
家にあった夏目ナナさん主演作のDVDパッケージに本社の代表番号が書いてあった。
まずはいきなり電話をかけて交渉してみることにした。意味不明な企画書もつくったりもした。
そのむちゃくちゃな行動が逆に熱いと評価して頂けたかどうかはわからないけど、
晴れて、中野坂上にあるソフトオンデマンドの本社にて、実際に話を聞いて頂ける運びとなった。
ロビーに通されると、そこにはソフトオンデマンドさんのヒット商品である「TENGA」がうず高くつまれていて、
そのTENGAタワーの凛とした佇まいは、僕らがこれから挑もうという大舞台である東京タワーのイメージとも重なった。
お話を聞いて頂いたのは、広報担当の前川さんと杉浦さん。
お二人は、緊張して自分でも何をしゃべっているのかわからない僕の話に、真剣に耳を傾けてくださった。
本当にありがたかった。
後日、前川さんから連絡があった。
なんと、夏目ナナさん、北川絵美さん、かすみ果穂さん、衣川由衣さんの4名のソフトオンデマンド専属女優さんが、
僕のコレクションにモデルとして出演して下さるという運びとなった。
本当に服をやってきてよかったと思える瞬間だった。(つづく)
*このプロフィールは、加筆をかさねながら、少しずつ形作られていきます。
